今日はなんにもやらない それと、リストカットの話
自分を傷つけることは、今日はひとつもしないって決めた。
だけど、安定剤と一緒にビールを飲んでる。
緊張を強制終了させるのだ。
昔みたいに、手首にカッターで傷をつけたら少し楽になるかと思ったが、食い扶持が営業職なので、見た目の安心感は大切なのだ。
リストカットを肯定してしまうと、きっと怒られる。
【常識的世界】では、それは許されない行為だろう。
私は、リストカットをしていた。
もうずっと昔だけど。
何回も縫合のために外科に行った。
お医者さんは、いつも科目だった。
塗ったり、ホチキスで止めたり、いろいろ。
今もうっすら跡が残っているが、ほとんどばれないくらいに薄くなった。
本当は、時々、しょっちゅう、四六時中、腕に傷をつけておきたい願望が持ち上がってくる。
その正当性は、きっと証明できない。
リストカットが酷かった時期、私の家から刃物が消えた。
両親が全て捨てたのだ。
精神科に入院してた時に、爪でリストカットしたこともあった。
実は、1週間ほど前、3本くらいの薄い傷跡を腕につけた。
リストカットを肯定することは【常識的世界】の倫理からは外れる。
けれど、私は、肯定も否定もしないことにした。
死んだように生きよう、と考えて、生きているが
時折、生の叫び声が襲ってくる。
虚無感。
虚無感は、「生きていく」という意欲を、著しく削りとってしまう。
この間のリストカット
猫にひっかかれた
で言い訳できる程度だった。
腕時計で隠せる場所だった。
死にたいからじゃなく、そうじゃなく、誰かに見せつけたいためじゃなく、虚無感から逃れるための抵抗なんだろう。
理解できない人に、無理やりにこの考えを押し付けるのはいけないことだ。
そして、私を大事に思ってくれる人を、傷つけてしまうことも、悲しいほどに理解している。
しかし、確かに
ビルから飛び降りるよりは、この方法の方が、私に限って言えば、生き残れる可能性は高い。
死にたい
と思ってしまうことは、悪いことなんかじゃ、絶対にない。
死にたい、と思うほど、苦しんでいるという事実がそこにあるのだ。
死にたい、と思うことを、悪いことだという人を信用しない。
ぞれぞれの、言葉にならない痛みを否定できる権利のある人間など、この世に存在しないと思っている。
けれど、リストカットすることは、自己嫌悪を増大させもする。
【常識的】な世界から批判をされるから、自分は、ダメな人間なんだと思ってしまったりする。
リストカットをしたからといって、その人がダメな人間かどうかなんて、誰にも判断できないじゃないか。
誰にも説明できない痛み苦しみを、自分の身体を使って、刻み付けているのだ。
私はと言えば、過去のリストカットは本当に悲惨だった。
3日に1回縫合をしに行くような状態だった。
だけれども、今は、傷が薄く見えなくなった。
両腕が血みどろになっても、何故か痛みは感じなかったのだ。
縫合したあとの方が、よっぽど痛みは強かった。
全く本当に。
今は営業の仕事だから、とても清潔感に気を遣い、爪もいつもピカピカにしている。
多分、きれいな腕だと思う。
リスカの衝動を、抑えているのは、今の食い扶持を維持するためなのだ。
誤解を恐れずに書くが、リストカット出来たら、どんなに、気分が楽だろうか。
誰にも、これを勧めたりしない。出来ない。痛いし、傷が残るし、変な目で見られるだろう。
だが、生きるか死ぬかで日々過ごす人々にとっては、どんな方法であれ、「今日も、かろうじて生きるため」という切実な理由があるのだ。
ただ
ただ
大切な人々を、必ず傷つける行為である。
そのことだけは、否定できない。
けれど、もし、リストカットをしていても、罪の意識を出来るだけ感じないで欲しいと願う。
自分の腕を血みどろにしてまで、生きようとするのだ。
ただ、傷をこれみよがしに晒すのは、個人的には大嫌いだ。
リストカットは、他人に見せつけるためのものじゃない。
少なくとも、自分にとっては。
もしやってしまったら、長袖を着る。
人それぞれだから、そこも肯定も否定もしない。
しかし、堂々と晒す気にはなれない。
あくまで私の中の基準だ。
リスカの傷を晒したい人を否定する気もない。