恐怖は自分からやって来た

ずっと感じて来たが、自分はとても中途半端な変わり者だ。

そして面倒くさがりだ。

頭の中は常に疑問に埋め尽くされているが、掘り下げていく程その疑問に興味がない。

つまりどうでもいいことだらけ。

ならば何故疑問に思うかと言えば、関わらなければならない他人からもたらされるものだからなのだろう。

私は非常に面倒くさがりかつ、他人になかなか打ち解けられない。

2人の人間がいたとして親しさを決めるのは誰なのだろう。私の領域にいきなり入ってこようとする人は非常に怖い。だが嫌だし怖いからやめてと否定する勇気もない。

だから相手は、全力で愛想笑いする私を信じてしまうのではないか。詰めた距離を私が認めたと思ってしまうのではないか。

嫌われる勇気がない、とは違う。

何かが違う。

何がしかの気高い目標を達成するためならば、誰かから嫌われたとしても割り切る強さ。

そんな目標などない。

何故みんなぎすぎすとするのだろうか。何故私は他人に恐怖を感じているのだろうか。

怖くて身動きが取れなくなる。

自分が自分でなくなる。自由な思考が出来なくなる。嫌うならば露骨に思い切り自己責任で嫌ってくれれば良いのだが、物事はそんなに白黒はっきりしていない。

まるで失敗する事を待ち構えられている気がしていた。

しかし。

私が居なくなっても、残った人々は似たような事を他の人にするだろう。

私は他人のやる事には受け身であり、良いとも悪いとも判断しない(好き嫌いはある、法律的に許さない事は除く)

自分の倫理観に照らすと、この出来事は嫌だな、いいな、と思うことはあるが、他人の倫理観に対してああしろこうしろと言う気はない。面倒くさい。

ただ相手が倫理観や常識や考え方の癖を振りかざして同意を求めてきたりすれば非常に辛くなる。恐怖を感じる。

親しいならば反論なり同意なりできるが。

この恐怖の根源は何なのだろう。

 

ベニスの商人を思い出した。

ネタバレがある。

 

ベニスの商人で一番恐ろしいと感じたのは、アントーニオがシャイロックキリスト教に改宗しろと命じるところだ。

キリスト教徒の慈悲?

ぞっとするほど怖いとしか思えない。

ユダヤ教徒が謂れなく悪役として描かれていることも勿論怖いけれど、信仰にまで口を出すのか、命と引き換えにして。

この物語では何故かシャイロックが一番魅力的だ。強欲というシンプルすぎる性格付けだけで彼は悪者にされているが、アントーニオは彼に何をしてきたか。差別して唾を吐いて悪口を言ってきた。

シャイロックの商売は違法ではない。詐欺でもない。借りた金は返せばいいのだ。

慈悲とかそんなもん持ち出すなら最初から借りるなよ。

シャイロックは非常に潔よく現実的。強欲というより自分の職業理念に忠実なだけでは。

シャイロックはアントーニオを殺したかったか?私ならアントーニオみたいな奴は消えて欲しい。

まだまだたくさんあるが、どう見てもシャイロックに味方してしまう。もしシェイクスピアがそこまで計算していたら凄い事だ。そう考えてしまうほどに、信仰を否定し改宗を迫る結末は血も涙もない酷い仕打ちに思える。

 

ベニスの商人の恐ろしさと、私が人間関係で感じる恐怖は同じだ。

私は中途半端な変わり者で、絶望的なほどには他人の思考を理解出来ない訳ではないが、理解したからといってあまり興味が湧かない。

社会的立場が上の人や強引な人や怖そうな人から「改宗」させられそうになると非常に混乱してしまう。いつも納得のいく説明がなされない。

考え方が違うと、話が通じない。

改宗を拒否すると、無視したり仲間はずれにしようとする人もいる。

何故私に言うのか。私が恐怖で奴隷のようになり表面だけで頷くからだ。彼らは悪くない。私が誤解を生む行動をしているのだ。これからはしないように頑張るが。

この嫌な感じを他人に向けたくないので、私の考え方は強要しない。

私はこう思うし、こう生きていきたいので、頑張る。

あなたについては特に何も。

邪魔しない。邪魔しないでくれ。

こちらを邪魔するなら反撃する。

これだけ。

人間から逃げているのかもしれない。今現在問題なく関係を築けている人以外は自分から知り合いや友人を増やす気はない。ただ、親しいかどうかに関係なく自分の思う誠実さをなくさないでいたいとは思う。

 

ベニスの商人

どんな解説を読もうと、一読した時に感じた恐怖はどうしても消えない。だが、時代背景、聖書、一神教(私には学習による把握は出来ても精神的な理解は出来ないだろう。神頼みが全く習慣ついていない)などへの知識がないとどうやらこの物語の喜劇たる部分が分かりにくいようだ。それでもなお、シャイロックの境遇や台詞は全く笑えない。自分の中の選民意識と被差別意識の両方があぶり出されるのだ。

もしや笑うべきは、差別し唾を吐きかけ借金も返さず人一人の尊厳を踏みにじりながら能天気なコントに興じる人々の姿なのだろうか。でなければ、シャイロックに複雑で現代的な人物造形と血肉通った言葉を与える意味などないのではないか。人間として尊厳を傷つけられた彼の怒りは当然に見えてしまうのだ。より愚かで強欲傲慢なのはどちらでしょうね、暗黒微笑、だったら凄い。

いやいや、やはり悪人を描いたつもりが時を経て現代ではうっかりシャイロックの方がまともに見えてしまっただけか?

信仰してるものの違いで人の優劣は決まらないはず。

こう考えるのが常識、正義、と言える人は誰もいないのだ。他人に押し付けず自分の責任において貫くべきだと自分に言い聞かせたい。

しかし実行するのはとても難しい。

もし差別されたら。変人と言われたり嫌がらせされたら。尊厳を傷つけられたと感じたら。

シャイロックのように殺したいほど憎み復讐に打って出るだろうか。心の中で切り刻み黙って抹殺するだろうか。尊大に振る舞い馬鹿な奴らだと笑うだろうか。

差別意識や被差別意識、尊厳について自分自身の問題として考える時、ベニスの商人は様々な痛みを私にもたらしていく。