蜷川実花さんの映画、辛い、怖い

さくらんヘルタースケルターだけ観た。

演者がみんな蝋人形みたい。

 

もしかして蜷川実花さんや映画に関わった人には、原作がこのように人形がセリフを棒読みする世界に見えているのだろうか?

 

一次作品に対して、読んだ側はそれぞれの頭の中で勝手にイメージを浮かべるだろうから、その解釈は他人と相容れないことがあって当たり前。それはちゃんと分かっている。

映像になる場合、原作通りには絶対ならない。

なら映像にする理由は何かと言えば、映像作家側の勝手な解釈だろうと何だろうと、原作から得た内なる熱が高いからであって欲しいのだ。

私にはその熱が蜷川実花さんの映画に感じられない。

若しくは、蜷川さんは確かに熱を持っていたのかもしれないが、多分傾ける場所が私とは全く違う。

 

私にとって、この方が映画で取り上げた原作は青ざめるような羞恥心や自己肥大を「人ごとじゃない」ものとして読者の内面に突き付けるものだ。

 

さくらんのマウンティングの汚さしかり、ヘルタースケルターの共感しようのない冷たさしかり、人間失格の冷や汗が出る「わざ、わざ」しかり。

 

居た堪れない、恥ずかしい、こちらの内面を暴かれるようで怖い、とプルプルしながらも、先を読まずにいられない。追い込まれながらも最後まで読んだ時自分は何を思うのか、知りたいのだ。

得難い読書体験だ。

 

こういうのは映画でももちろんよくある。

大島渚監督の「忍者武芸帳」は好きな作品。もちろん白戸三平ファンの中には「あれはない」作品だと位置づけている人がいるかもしれない。

けれども私は映画を先に知り、原作でもっと好きになったクチだ。

 

大島渚監督の解釈は、原作の荒唐無稽かつ荒涼とした空気を映画に痛いほど焼き付けていた。登場人物は生き生きと悲劇を駆け抜ける。蝋人形どころか紙に描かれた絵にもかかわらず。豪華キャストも絢爛な映像美もへったくれもない白黒の世界にもかかわらず。

それを可能にしているのは、やはり熱だと思う。引き算された部分も含めて。その塩梅が私の中に新たな熱を生んでくれた。

つまり、ひりつくほどに容赦ない「この世界が好きなのに、絶対にこんな風にはなれない」という不思議な絶望感だ。

物語が登場人物を悲劇に導いていたとしても、それでも惹かれる。

 

蜷川さんの映画は、全くそのような心理に私を導いていかない。

むしろ原作が私の中に起こした羞恥や居た堪れなさ、自分を暴かれているような、これは自分に通じる物語だ、という部分を徹底的に無視して作られたとすら思える。

細かい部分で面白いやり方だと感じたところはあるけれど、映画の核になるのはそこではないはず。

 

登場人物に生気がない。

血肉がない。

切った啖呵に説得力がない。

際どいシーンになればなるほど現実感が薄れていく(さくらん菅野美穂さんはそれでも唯一血肉があったと感じた。役者の力か)

綺麗でも汚くもない。

つまり何もない。

羞恥心や居た堪れなさどころか、物語にもキャラクターにも興味すらなくなってしまう。

何もないならないで、つまらなかったで終わればいいんだが、それで収まらず、腹が立ってくる。

 

題材の選び方のせいである。

蜷川さんの実力では、これらの原作を扱うには役者不足。

 

原作は人の心をえぐる作品ばかり。ストーリーに個性がありキャラクターは生き生きと狂っている。

ストーリーの個性を潰してキャラクターから生気を抜き取ってしまうのはある意味才能といえなくもないので、もしかしたら一から脚本を書いたオリジナルストーリーにしたら、もう少しは観た甲斐が生まれるかもしれない。

 

太宰治人間失格なんて本気でやらないでほしいやつ。触らないでくれたらいいのに。

 

原作付きの映像作品が原作を破壊しているなんてよくあることだが、蜷川実花さんの映画は、そういうのとはまた違う嫌悪感を催す。

うまく言葉で表現出来ない嫌悪感。

亡くなった栗城史多さんのエベレスト難関ルート挑戦にどこか似た嫌悪感だ。

(当然私はお二人の表現方法や目的は混同していない、別物であると理解している)

その人個人へのものではない。

表現そのものへでもない。

酷く大きな力(お金や話題性?)を伴いながら生み出されていく虚無へのものだろうか。

やはり上手く言葉に出来ない。

もしかしたら嫌悪感より恐怖に近いのかもしれない。

 

…原作を先に読んでいるかどうかの点では、さくらんヘルタースケルターは読んでいた。忍者武芸帳は映像が先だ。この違いは映画の評価になかなか影響するかもしれないと思いついた。

また栗城氏についてだが「挑戦」「否定の壁」など言葉が彼の行為には相応しくない。どちらの言葉も、実力が伴うかどうかギリギリの場合に使われてこそ真実だろう。越えていくべきは「実力の壁」「努力の壁」だ。実力も努力もコツコツ黙って積み上げる他ない。

空虚への恐怖とは別の意味で、この言葉の使い方は怖い。モラルハザードを促す人はいつもこういう詭弁を使うからだ。

成功出来るし幸せになれるよ、と言うのだ。具体的な道筋は示さず、ポジティブな精神ばかり強調するのだ。非常に怖い。