淡々と冷静に、真面目に明るく
マスク、手指消毒などしながら、心持ちは大して変わらず淡々と日々過ごす
サージカルマスクが手に入らないのでダブルガーゼのハンドメイドマスクを洗って使っている
アルコール消毒液も品薄なんで、手洗いをしっかりしている
週に1、2回は電車に乗る用事もあるけど人が密集する場所は行かない
身近には接客仕事の家族もいる
自分の気持ちは淡々としている
病気療養中ゆえ行動は既に制限されていた
小さな趣味楽しみ喜びが貴重
今更ながら日常に感謝
咳エチケットや感染防止策を加え、必要な最新情報をチェックする日々
必要な情報…をどう受け止めていくか
ここには個人差が出るみたい
最近、ある知り合いが病んでいる
不安辛い寂しい苦しい、もし感染してたらどうしよう、生きててゴメンなさい、みたいな書き込みをSNSにしている
なんだどうした?
謝る必要ないよ、君悪いことしてないよよ(でも寂しいのはわかるよ)
しかしいきなりエモくなりすぎてるじゃないか
他の人の記事に「心配心配心配」とコメントするか「涙マーク(悲しいね)」をつけている
えらい自虐入っちゃってる
もともと真面目で一本気なところがある子だったが、思い詰め過ぎているみたい
言霊とはよく言った物で、その子は自分の発する言葉に追い討ちをかけられて益々どんより落ち込んでしまった、らしい
先の見えない中、どんな心持ちでいたらいいのか分からなくて、不安の深みハマっていった
今は不安を数え始めたらきりがない
冷静さが必要
行政や医療や経済や、もろもろ、ワクチンと特効薬がない今は、確かな見通しなんか立たないんだ
先が見通せないなら、せめて心と身体の健康を大切に
身体の健康については、常に冷静に対処していくことが大事かなあ
心に関しては、小さな楽しみや喜びを存分に味わうといいかもしれない
自分で自分の心を攻撃しちゃ辛いよね
とりあえず、ちょっと病んでしまった知り合いには、笑いを届けてみる
自分でコントロール出来ることは限られているからこそ、その部分を大切にしてみる
元気いっぱいに笑える日を想像する心の力だけは自由なのだ!
知り合い、と書いたけど、大切な仲間
寂しさや不安に潰れそうな時は、話きくよ!
真面目に明るく、頑張ろうね
こんな事に意味などない
混乱していた。
今もまだ。
一切合切、決意と呼ばれるものから避難して、身を沈め続けていたが。
真面目に傾けられた振動は、体に共鳴しないぎりぎりを伸びていった。
楽譜に記されない痛みが、不愉快を隠さない顔で内側から私を見ている。
これは危ない。
これ以上ここに浮かんでいたら、戻れなくなる。
明らかに自分が不利なのに憎しみが深い。
もう離れよう。
大切を大切にしましょう。
夜明けが、この世の善きことの全てではない。
夜の黒さが今は恐ろしくありません。
何もしないことを今は恐れていないのです。
昨日覚えた怒りと憎しみが、缶チューハイの重さになり、それはあっけなく溶けて、味も思い出せなくなります。
何の努力も必要とせず、思考を開放いたします。
それは考えることをやめるのとは違い、決断を放棄するのとは違い、苦しみから逃避するのとは違い、そのすべてを飲み込みながら、このような感情でありたいと願う方向へ体の向きを変えた、ただそれだけなのである。
ゆっくりとしかし確かに、自分の鳴らした足音が生命を奏でている。
大した事では無い。
ベタ凪のようでいて、海は動きを止めようとはしないのだ。
激しい海が私の中にあり、光の届かない音のない深さが確かにあり、そこでしか生まれない自分自身があり、その事実は覆すことができない。
悲しみ苦しみ何もかも、その深さでなければ見つからない暗闇ゆえの情動が、私の海を豊かにする。
のしかかる圧が生む。
嵐のように激しい静寂。
全身飲み込まれながら今夜私は朝など待たない。
這い上がらない
私には一つ目標がある。
掃除と片付けが出来るようになることだ。
優先順位をつけるのが苦手で、掃除や旅行の準備をしたくても何から手を出していいか分からなくなるのだ。
だが焦ってはいない。
非常に難しいのだが、やる気になっているのか病的にテンションが上がっているのか区別をつけないといけない。
病的テンションの時に徹夜で掃除しても継続には至らない。
物事を凪の状態で継続していく。
これが最終目標だ。
以前は感情がなくなってしまうのではないかと恐れたが、今は少し違う。
私の本質はあまり変わらない。私はあまり人と気が合わないらしい。孤立はしていないが孤独は感じる。発狂しそうな切羽詰まった精神状態は紛れもなく私を形造る一部分であり否定したところで消えはしない。それを認め始めたのだ。
まともな人間、という言葉に固執し、自分を振り返らず発狂ばかりしていたが、少しだけでも狂気の手綱を握れないか?と思う。
まともでなくていい、自分がどんな状態か前よりは分かるようになるだけでいい。体温計ならぬ体狂計が欲しいのだ。
狂気がもたらす一番の悲劇は死かもしれない。うねりの激しさに耐えられなくなり命ごと手放したくなる。あるいは薬やアルコールに溺れて意識の混濁を望む。悲観は恥を刺激する。生きるのが困難なほどの恥ずかしさが襲う。そしてこれがずっと続くかもしれないと思うと疲れきってしまう。
私は眠るべきだ。
私は優先順位を決めるべきだ。
孤独ならば孤独なりに孤独だからこそできることがしたいのだ。
戦いは自分へと向かい、体は外へ向いている。
何故正当な手順が踏めるなんて思ったのか。安易で安全な方法がどこかにあると思ったのか。
私は私の感情を一切捨てたくない。全て私には大切なものなのだ。狂気だとしても。
つまり這い上がらない。理想などない。掃除ができるようになればかなりいい線だ。
ちなみに仕事机は綺麗に片付けていた。
「まともな何か」を期待しない。綺麗な道はない。自分を楽しませるのはいつも自分だった。どんなに頑張ってもうまくいかないからこそ楽しい。
悲観的な楽観主義。
闇がない場所では何も熟さない。
恐怖は自分からやって来た
ずっと感じて来たが、自分はとても中途半端な変わり者だ。
そして面倒くさがりだ。
頭の中は常に疑問に埋め尽くされているが、掘り下げていく程その疑問に興味がない。
つまりどうでもいいことだらけ。
ならば何故疑問に思うかと言えば、関わらなければならない他人からもたらされるものだからなのだろう。
私は非常に面倒くさがりかつ、他人になかなか打ち解けられない。
2人の人間がいたとして親しさを決めるのは誰なのだろう。私の領域にいきなり入ってこようとする人は非常に怖い。だが嫌だし怖いからやめてと否定する勇気もない。
だから相手は、全力で愛想笑いする私を信じてしまうのではないか。詰めた距離を私が認めたと思ってしまうのではないか。
嫌われる勇気がない、とは違う。
何かが違う。
何がしかの気高い目標を達成するためならば、誰かから嫌われたとしても割り切る強さ。
そんな目標などない。
何故みんなぎすぎすとするのだろうか。何故私は他人に恐怖を感じているのだろうか。
怖くて身動きが取れなくなる。
自分が自分でなくなる。自由な思考が出来なくなる。嫌うならば露骨に思い切り自己責任で嫌ってくれれば良いのだが、物事はそんなに白黒はっきりしていない。
まるで失敗する事を待ち構えられている気がしていた。
しかし。
私が居なくなっても、残った人々は似たような事を他の人にするだろう。
私は他人のやる事には受け身であり、良いとも悪いとも判断しない(好き嫌いはある、法律的に許さない事は除く)
自分の倫理観に照らすと、この出来事は嫌だな、いいな、と思うことはあるが、他人の倫理観に対してああしろこうしろと言う気はない。面倒くさい。
ただ相手が倫理観や常識や考え方の癖を振りかざして同意を求めてきたりすれば非常に辛くなる。恐怖を感じる。
親しいならば反論なり同意なりできるが。
この恐怖の根源は何なのだろう。
ベニスの商人を思い出した。
ネタバレがある。
ベニスの商人で一番恐ろしいと感じたのは、アントーニオがシャイロックにキリスト教に改宗しろと命じるところだ。
キリスト教徒の慈悲?
ぞっとするほど怖いとしか思えない。
ユダヤ教徒が謂れなく悪役として描かれていることも勿論怖いけれど、信仰にまで口を出すのか、命と引き換えにして。
この物語では何故かシャイロックが一番魅力的だ。強欲というシンプルすぎる性格付けだけで彼は悪者にされているが、アントーニオは彼に何をしてきたか。差別して唾を吐いて悪口を言ってきた。
シャイロックの商売は違法ではない。詐欺でもない。借りた金は返せばいいのだ。
慈悲とかそんなもん持ち出すなら最初から借りるなよ。
シャイロックは非常に潔よく現実的。強欲というより自分の職業理念に忠実なだけでは。
シャイロックはアントーニオを殺したかったか?私ならアントーニオみたいな奴は消えて欲しい。
まだまだたくさんあるが、どう見てもシャイロックに味方してしまう。もしシェイクスピアがそこまで計算していたら凄い事だ。そう考えてしまうほどに、信仰を否定し改宗を迫る結末は血も涙もない酷い仕打ちに思える。
ベニスの商人の恐ろしさと、私が人間関係で感じる恐怖は同じだ。
私は中途半端な変わり者で、絶望的なほどには他人の思考を理解出来ない訳ではないが、理解したからといってあまり興味が湧かない。
社会的立場が上の人や強引な人や怖そうな人から「改宗」させられそうになると非常に混乱してしまう。いつも納得のいく説明がなされない。
考え方が違うと、話が通じない。
改宗を拒否すると、無視したり仲間はずれにしようとする人もいる。
何故私に言うのか。私が恐怖で奴隷のようになり表面だけで頷くからだ。彼らは悪くない。私が誤解を生む行動をしているのだ。これからはしないように頑張るが。
この嫌な感じを他人に向けたくないので、私の考え方は強要しない。
私はこう思うし、こう生きていきたいので、頑張る。
あなたについては特に何も。
邪魔しない。邪魔しないでくれ。
こちらを邪魔するなら反撃する。
これだけ。
人間から逃げているのかもしれない。今現在問題なく関係を築けている人以外は自分から知り合いや友人を増やす気はない。ただ、親しいかどうかに関係なく自分の思う誠実さをなくさないでいたいとは思う。
どんな解説を読もうと、一読した時に感じた恐怖はどうしても消えない。だが、時代背景、聖書、一神教(私には学習による把握は出来ても精神的な理解は出来ないだろう。神頼みが全く習慣ついていない)などへの知識がないとどうやらこの物語の喜劇たる部分が分かりにくいようだ。それでもなお、シャイロックの境遇や台詞は全く笑えない。自分の中の選民意識と被差別意識の両方があぶり出されるのだ。
もしや笑うべきは、差別し唾を吐きかけ借金も返さず人一人の尊厳を踏みにじりながら能天気なコントに興じる人々の姿なのだろうか。でなければ、シャイロックに複雑で現代的な人物造形と血肉通った言葉を与える意味などないのではないか。人間として尊厳を傷つけられた彼の怒りは当然に見えてしまうのだ。より愚かで強欲傲慢なのはどちらでしょうね、暗黒微笑、だったら凄い。
いやいや、やはり悪人を描いたつもりが時を経て現代ではうっかりシャイロックの方がまともに見えてしまっただけか?
信仰してるものの違いで人の優劣は決まらないはず。
こう考えるのが常識、正義、と言える人は誰もいないのだ。他人に押し付けず自分の責任において貫くべきだと自分に言い聞かせたい。
しかし実行するのはとても難しい。
もし差別されたら。変人と言われたり嫌がらせされたら。尊厳を傷つけられたと感じたら。
シャイロックのように殺したいほど憎み復讐に打って出るだろうか。心の中で切り刻み黙って抹殺するだろうか。尊大に振る舞い馬鹿な奴らだと笑うだろうか。
差別意識や被差別意識、尊厳について自分自身の問題として考える時、ベニスの商人は様々な痛みを私にもたらしていく。
まあまあ
蜷川実花さんの映画がつらい
と喚きまくったけど、大してダメージくらったわけでなし。観なければいいじゃないの。嫌いなことより好きで自分を語れよって迷作漫画でも書いてあるそうだし。
イライラすると攻撃的になってダメすね。
なぜ嫌いかを考えるのは、いい側面も悪い側面もある。
話が変わる。
作品と作者の人間性について分けて考えるべきだって意見みかける。
作品に作者の人間性が反映されていないなんてことはなくない?反映しないなら何のために表現なんかやってるのだろう。お金のためだけ?
薬物で逮捕された歌手の作品回収は、毎回どう判断すべきか難しい。作品は作者の表現物で別に違法性はない。他方殺人を犯して刑務所内で本を書いて出版する人もいる。この出版にも違法性はない。
しかしあまり堂々と表に出されたら、その人の精神構造に図太さを感じて驚いたり非常に不気味なイメージを持ってしまう。血も涙もないんじゃないの?と。もちろん内容に寄るだろうが、読む予定がないとしたらなおさら「え、本出すとか何様?自己顕示欲?怖い。キモい」と感じる可能性もある。
倫理観と感情論のさじ加減。
ちなみに私が好きなアメリカのギタリストも元薬物中毒者だ。
ロバートダウニーJr.も薬物で問題を起こしまくった。
問題のない人間はいない。
作品と人間性を全く切り離すのは乱暴な言い方だし、作品が良いから作者や演者も素晴らしい人間性の持ち主というのは更に根拠のない話。
そんなことは遠い世界のことのようでいてしかし、似たような話は実はよく転がっている。
しかし、何にしろ。
私にはより良い人間になれるよう努力していく姿勢が必要だ。
そして何がより良いかは、自分のだらしなさと戦って知っていくしかなさそうだ。
蜷川実花さんの映画、辛い、怖い
演者がみんな蝋人形みたい。
もしかして蜷川実花さんや映画に関わった人には、原作がこのように人形がセリフを棒読みする世界に見えているのだろうか?
一次作品に対して、読んだ側はそれぞれの頭の中で勝手にイメージを浮かべるだろうから、その解釈は他人と相容れないことがあって当たり前。それはちゃんと分かっている。
映像になる場合、原作通りには絶対ならない。
なら映像にする理由は何かと言えば、映像作家側の勝手な解釈だろうと何だろうと、原作から得た内なる熱が高いからであって欲しいのだ。
私にはその熱が蜷川実花さんの映画に感じられない。
若しくは、蜷川さんは確かに熱を持っていたのかもしれないが、多分傾ける場所が私とは全く違う。
私にとって、この方が映画で取り上げた原作は青ざめるような羞恥心や自己肥大を「人ごとじゃない」ものとして読者の内面に突き付けるものだ。
さくらんのマウンティングの汚さしかり、ヘルタースケルターの共感しようのない冷たさしかり、人間失格の冷や汗が出る「わざ、わざ」しかり。
居た堪れない、恥ずかしい、こちらの内面を暴かれるようで怖い、とプルプルしながらも、先を読まずにいられない。追い込まれながらも最後まで読んだ時自分は何を思うのか、知りたいのだ。
得難い読書体験だ。
こういうのは映画でももちろんよくある。
大島渚監督の「忍者武芸帳」は好きな作品。もちろん白戸三平ファンの中には「あれはない」作品だと位置づけている人がいるかもしれない。
けれども私は映画を先に知り、原作でもっと好きになったクチだ。
大島渚監督の解釈は、原作の荒唐無稽かつ荒涼とした空気を映画に痛いほど焼き付けていた。登場人物は生き生きと悲劇を駆け抜ける。蝋人形どころか紙に描かれた絵にもかかわらず。豪華キャストも絢爛な映像美もへったくれもない白黒の世界にもかかわらず。
それを可能にしているのは、やはり熱だと思う。引き算された部分も含めて。その塩梅が私の中に新たな熱を生んでくれた。
つまり、ひりつくほどに容赦ない「この世界が好きなのに、絶対にこんな風にはなれない」という不思議な絶望感だ。
物語が登場人物を悲劇に導いていたとしても、それでも惹かれる。
蜷川さんの映画は、全くそのような心理に私を導いていかない。
むしろ原作が私の中に起こした羞恥や居た堪れなさ、自分を暴かれているような、これは自分に通じる物語だ、という部分を徹底的に無視して作られたとすら思える。
細かい部分で面白いやり方だと感じたところはあるけれど、映画の核になるのはそこではないはず。
登場人物に生気がない。
血肉がない。
切った啖呵に説得力がない。
際どいシーンになればなるほど現実感が薄れていく(さくらんの菅野美穂さんはそれでも唯一血肉があったと感じた。役者の力か)
綺麗でも汚くもない。
つまり何もない。
羞恥心や居た堪れなさどころか、物語にもキャラクターにも興味すらなくなってしまう。
何もないならないで、つまらなかったで終わればいいんだが、それで収まらず、腹が立ってくる。
題材の選び方のせいである。
蜷川さんの実力では、これらの原作を扱うには役者不足。
原作は人の心をえぐる作品ばかり。ストーリーに個性がありキャラクターは生き生きと狂っている。
ストーリーの個性を潰してキャラクターから生気を抜き取ってしまうのはある意味才能といえなくもないので、もしかしたら一から脚本を書いたオリジナルストーリーにしたら、もう少しは観た甲斐が生まれるかもしれない。
太宰治の人間失格なんて本気でやらないでほしいやつ。触らないでくれたらいいのに。
原作付きの映像作品が原作を破壊しているなんてよくあることだが、蜷川実花さんの映画は、そういうのとはまた違う嫌悪感を催す。
うまく言葉で表現出来ない嫌悪感。
亡くなった栗城史多さんのエベレスト難関ルート挑戦にどこか似た嫌悪感だ。
(当然私はお二人の表現方法や目的は混同していない、別物であると理解している)
その人個人へのものではない。
表現そのものへでもない。
酷く大きな力(お金や話題性?)を伴いながら生み出されていく虚無へのものだろうか。
やはり上手く言葉に出来ない。
もしかしたら嫌悪感より恐怖に近いのかもしれない。
…原作を先に読んでいるかどうかの点では、さくらん、ヘルタースケルターは読んでいた。忍者武芸帳は映像が先だ。この違いは映画の評価になかなか影響するかもしれないと思いついた。
また栗城氏についてだが「挑戦」「否定の壁」など言葉が彼の行為には相応しくない。どちらの言葉も、実力が伴うかどうかギリギリの場合に使われてこそ真実だろう。越えていくべきは「実力の壁」「努力の壁」だ。実力も努力もコツコツ黙って積み上げる他ない。
空虚への恐怖とは別の意味で、この言葉の使い方は怖い。モラルハザードを促す人はいつもこういう詭弁を使うからだ。
成功出来るし幸せになれるよ、と言うのだ。具体的な道筋は示さず、ポジティブな精神ばかり強調するのだ。非常に怖い。
一年生一学期
体調がなかなか安定いたしません。仕方ないですね。薬の飲み方を工夫したり、適度な運動をしたり、やってはいるんですけどね。
病気になって…というかですね私の病名が判明したのが去年なんですが笑、病歴は15年以上らしいんですよ爆笑
で、薬もね合わない奴が出てたりしていたわけですよ
ほんでもってその合わない薬飲むと記憶を失ったりとかして、だけどお医者さんに行ってもなかなか薬変わらなかったりして
去年思い当たることがあって、まぁ双極性障害なんですが、めちゃくちゃわかりやすい躁転エピソードがあったことを思い出したんですよ
えーと黒歴史ってやつですか
いきなり700,000円のローンを1時間で即決で組んだり、携帯電話の電話番号に上から下まで電話かけたり、誰にも告げずに新幹線に飛び乗って泊まるとこもないのに都会の商店街で謎のパペットパフォーマンスしたり
書いていて恥ずかしすぎます
でね
まあまあこういうことを覚えているんですよ。で覚えてない場合も、もちろんそばにいた人からあんたこんなことしてたよって教えてもらうわけですよ
その時に病気の当人がどう感じるかって。もうあれです、自己評価下がりまくり恥ずかしくて死にたい、ほんでもってこの理由で自分で自分を滅ぼしてしまう人がとても多いのだそうです
身に覚えがありますけれども正常ではいられませんからね、いやいや病気なんでもともと正常じゃないからね笑
それで今のお医者さんに出会った時に言ってくれたのが、少し気分が落ち込んでいる位でいいんだよって
そらまあ少しっていうのがどれぐらいなのかって言う疑問はありますけど笑、そこはもう当事者にしかわからないから、ゆっくり時間をかけて、自分の状態をその時その時把握していくしかないわけですね
今の主治医さんは会ってお話しするとほっとしますし、薬の処方に関してもとても繊細ですしやっと合うに出会えて幸運です
ここら辺がとても難しくて
その前のお医者さんは、この病気は他人を不幸にするからねとか、根性が足りないとか言う人もいましたけど苦笑
いやいやそんなん自分が1番わかってますからハハハ
そしてこの病気ですごく気をつけなくちゃいけないこと
楽しくて気分が良くてやる気があるとき
これ病気の症状の場合がめちゃくちゃ多いです
もう行動したくてたまらなくなっちゃうんですよ
のーんびりとかフラットな時間がなくて、ガーって働き続けて眠らず食べずが続き、そしてぶっ倒れて何もできない期間が続く
なので、今自分がフラットなのかさっぱりわからないんですよ
そしてやりたいことがあったり、目的があっても、ハイテンションが悪化するのが怖くて(というか気をつけないとほんとに痙攣するまでやっちゃいますので)
けどね、このぐちゃぐちゃの感情障害を患った病人である、だからこそわかることがあるだからこそ表現できることがある
それはそう思う
確かに私も場合によっては、記憶をしなったまま気がついたらこの世から消えてしまっていたり(本当にそれは避けたいですけど)と言う危険性を持った病気なわけですが、でもって本当はとてもポジティブなはずのやる気やら集中力をセーブしていかなくちゃいけないと言うセルフコントロールがかなり大事だったりして
今少し躁転気味だと思います
何かしていないと落ち着かない気分です
躁になると食欲が全くわかなくなるので、それもわかりやすい信号です
どんなふうにこの現状を楽しんでいこうか
どこへでも行けるし、どんな私にもなれる